現地紙ラ・ナシオンの論稿を読み解く
ちょっと古い記事になるが、コスタリカにおける軍隊廃止記念日である昨年12月1日、「軍隊なき75年:コスタリカに対する武力攻撃が行われたらどうなるか?」という論稿が現地新聞ラ・ナシオン紙のサンデーマガジン欄に掲載されました。
軍隊がないことが常識であるこの国において、この類の議論はむしろ起こりません。そもそも多くの人が外国からの侵略の脅威を感じていない(実際にはあるのだが、それを軍事的にしか対処できないと考える人はほぼいない)上に、「ないものはない」のだから、「軍隊を使わない範囲において対処する」以外に答えはないからです。
その意味で、この記事はその問いに正面から答える、ちょっと珍しい論稿だといえます。
では、コスタリカ人が「攻められたらどうするの?」に対して真剣に答えるとしたら、いったいどういう答えを出すのか。その中身を見ていきましょう。
コスタリカの軍隊廃止までの経緯
導入部ののち、同論稿はまず軍隊廃止以前のコスタリカ軍について考察しています。1917年、同国の歴史の中で唯一といっていい軍事クーデタが起こり、一時的に軍が強化されますが、その時期を除いては、コスタリカ軍に対する予算傾斜は教育や保険と比べて低く、もとから弱体であったと述べられています。
1921年にパナマとの間で起きた「コト戦争」も、コスタリカ軍の弱体化に寄与したとしています。コスタリカ軍がパナマ軍を撃破して占領された地域を取り戻し、進軍しようとした際に米軍が介入し、国境地域におけるコスタリカの権利が尊重される前提のもとで米国が仲介したため、コスタリカ軍はパナマ方面における領土防衛機能を低下させた影響を指摘しています。
この両事件により、元公安大臣アルバロ・ラモスによると、「ティノコのような軍事独裁政権を二度と繰り返さないために、コスタリカの陸軍海軍省は公安省に改変された」そうです。
とはいいつつも、コスタリカにも軍事的伝統がないわけではありません。また、軍事的騒乱がなかったわけでもありませんでした。1932年には、選挙結果に不満を持った一群がベジャ・ビスタ要塞(現在の国立博物館/1948年にホセ・フィゲーレスが軍隊廃止宣言を行なった場所)に突入し、武力で権力を掌握しようとした事件が起きました。その結果、軍の改組が行われ、軍指導部が交代し、政府軍は指揮系統の統一性を欠いていきました。人民前衛党(いわゆる共産党)が政権に加わった1940年以降は、人民前衛党部隊も軍事力として無視できない実力行使部隊となっていました。
ホセ・フィゲーレスが権力を掌握することになる革命の前夜である1948年、やはり選挙結果に不満を持った一般大衆が町中で大規模デモを展開しました。この時には、野党統一候補であるオティリオ・ウラテが勝利したと当初は報じられていましたが、与党側が国会でその結果をひっくり返す裁定を下し、それに反発した市民が通りに展開して抗議活動を行なったのです。それに対して政府軍は発砲を含む軍事的威力で弾圧しました。これが、与党側でも野党側でもなかったホセ・フィゲーレスの武装蜂起の引き金となったのです。
内戦に勝利し、サンホセに入城するフィゲーレス(右)
同年3月に武装蜂起したフィゲーレスは、約40日間の戦闘を経て政府軍を圧倒し、権力を掌握しました。複数筋から、その後フィゲーレスが行なった軍備放棄の提案は、当時公安大臣であったエドガル・カルドナのアイデアであることが指摘されていますが、私自身はその直接的な証拠をまだ目にしていません(カルドナの妻の証言が現時点での私自身の最大の根拠です)。しかしながらの後、1949年に常備軍の禁止が正式に憲法で規定される以前に、政府軍と戦ったフィゲーレスの軍隊である国民解放軍との意見の相違により、カルドナ自身が武器をとってクーデタ未遂事件を起こします。失敗に終わったこの試みが、かえって「クーデタ防止」という軍解体の理屈づけを強化したのも、皮肉なことです。
いずれにしろ、そのような経緯で、ホセ・フィゲーレスは1948年12月1日、べジャビスタ要塞で軍隊の廃止を宣言し、1949年11月7日に制定された新憲法の第12条に、常備軍の廃止が正式に明記されたのでした。
1948年12月1日、軍隊廃止式典で要塞の壁をハンマーで打ち砕くフィゲーレス
軍隊廃止後、コスタリカは実際に攻められた
軍隊廃止宣言からわずか10日も経たない1948年12月10日、フィゲーレスによって内戦の敗者としてニカラグアに亡命したカルデロン・グアルディアがリベンジを機してコスタリカ領内に侵入する事件が起きました。この時はまだ軍備は正式に解体されていなかったため、フィゲーレスの国民解放軍が現場の対応にあたりました。同時に、発足直後の米州機構(米州機構)等に働きかけ、カルデロンを支援していたニカラグアに米国を中心とした国際的な圧力をかけることで補給を経ち、大規模な戦闘に至らずに難を逃れました。
1955年、カルデロンがやはりニカラグアのソモサ政権に支援を受け、侵攻してくる事件が発生しました。当時は軍隊の廃組からまだ5年ほどしか経っていなかったため、旧国民解放軍の有志が現場に集まる一方で、48年と同様、OASに提訴することで最終的に解決しました。またこの時は、現場の軍事的対応のために米国から軽戦闘機4機等(うち実践投入は2機)の軍事支援を受けています。
1955年の侵攻時に使われた軍事車両。そのままの姿で放置されている
1980年代は、軍事侵攻という形ではないものの、隣国ニカラグアの内戦に国境地帯が巻き込まれました。ニカラグアの革命政府サンディニスタ軍は米CIAの組織した反政府軍コントラを国境地帯まで追い詰め、コントラはコスタリカ領内にベースキャンプを作って逃げ込んでいました。また、CIAもコスタリカ領内で暗躍したことが確認されています。それでも、コスタリカ自身が直接戦火を交えることはないまま、ニカラグアの内戦は1990年に終結しました。
そうこうしている間に、もう一方の隣国であるパナマでは1990年に実質的に軍隊を廃止し(憲法に明記したのは1994年)、コスタリカとパナマの間で「軍隊のない陸地国境」が誕生しました。これで2つの隣国のうち片方は、軍事的脅威や衝突の懸念がなくなったわけです。
残るもう一方のニカラグアに関しては、21世紀に入っても軍事的懸念は解消されないままでした。2010年、カレーロ島というコスタリカ領内にある国境地帯の中洲にニカラグア軍の一部隊が進駐する事件が起きます。この際には近隣に配備されていた警察官が集まって現場対応(戦火は交えていない。警備行動のみ)をする一方、OASおよびハーグの国際司法裁判所を通じて問題の解決を図りました。一切武力に拠らず、国際法のみで対処したのです。
OAS憲章第27条は、「特別条約は、紛争を解決する適切な手段を定め、それぞれの平和的手段に関連する手続きを決定しなければならない」と定めています。OASはよく地域安全保障条約だと言われますが、それは加盟国の紛争において「集団的自衛権」の名の下に「集団的戦争を起こす権利」を定めているのではなく、紛争の「平和的解決」を求めているのです。
同様に、地域安全保障条約とされる米州相互援助条約(通称リオ条約)も、その第2条と第3条で、当事者はすべての紛争を平和的解決の方法に委ねることを約束し、いずれかの国家による米州(本条約加盟国)に対する武力攻撃が発生した場合、それはすべての米州(条約加盟国)に対する攻撃とみなされるとされています。これをもって、侵略された場合には集団的自衛権のもとでの戦争が「不可避」だとする論がまかり通っていますが、その手段が必ずしも戦争でなければならないとはどこにも規定されておらず、それは牽強付会というものです。実際、コスタリカはリオ条約に基づいて集団安全保障の枠組の中でこれらの侵略行為に対峙していますが、その自衛行為とは「国際法に基づいた紛争の終結」であり、他の加盟国はそれに従ってニカラグアに対する法的・外交的措置をとっています。攻められたから軍事的に攻撃し返す「しか選択肢がない」というのは、論理的にはただの視野狭窄だということになります。
コスタリカの再軍備は可能か
よくネット上で見る言説に「コスタリカはいつでも再軍備が可能だ」というものがあります。それについてはどうなのでしょうか。ラ・ナシオン紙の解説を続けます。
確かに、憲法第12条は「大陸協定に基づいて、もしくは国防のために軍隊を招集できる」と書いてあります。しかしそれは事実上不可能であり、死文化した条文であるとする解釈が一般的であり、再軍備可能条項だと解釈する人はコスタリカにはまず存在しません。
そもそも、軍事的装備や技術、訓練などがまったくない状態では、機能する軍隊を招集しようとしても事実上不可能です。そのため、この条文を現実のものとして捉えること自体が不可能だと考えられています。
仮に主権防衛のためコスタリカ国民が銃を手に取るケースを仮定した場合、それは内閣が責任を持ちます。平和主義が浸透したこの国において、その責任を負える大統領や閣僚が出てくる現実性はまずありません。
この記事は、以下のような段落で締められています。
「概して、コスタリカは、協定と国際法に従って、平和的かつ外交的手段を通じて問題の解決を促進する世界の国の一つです。私たちの主権が危険にさらされた場合、私たちが軍事紛争に巻き込まれる可能性はありません。平和は今後も私たちが生きる法則であり続けます。」
結局、攻められたらどうするのか?
これまで述べたように、攻められたら「国際法に則って国際社会の中で解決に導く」が答えです。「武器を持って軍事的に反抗する」という選択肢は、そもそも彼らの中に存在しません。武器を持たない心はコスタリカ市民の事由に基づくコンセンサスであり、法律や憲法に縛られるものではありません。文字面に惑わされていては、この非武装平和社会の真の姿は見えてこないのです。