コスタリカ憲法第9条は、いま「骨抜き」にされつつあるのか——2026年夏、institucionalidad の破壊という仮説
コスタリカの「9条」は、軍隊の条文ではありません。
日本で「憲法9条」といえば戦争の放棄です。その連想から、コスタリカの9条も軍隊の条文だと思われがちですが、違います。コスタリカで軍隊を持たないと定めているのは第12条です。第9条のほうは、「この国をどう動かすか」を定めた統治の設計図にあたります。
そこにはこう書かれています。政治の力は、国会・内閣・裁判所という三つの権力が、たがいに独立したまま行使する。そして「人民」も、その三権と並んで政治の力を行使する——2003年の憲法改正で、この「人民(el pueblo)」と「参加的」という二語が書き加えられました。
そして2026年の夏、コスタリカでもっとも激しく争われているのが、この第9条です。
8月3日、フェルナンデス大統領は閣僚全員を引き連れて最高裁に乗り込み、憲法裁判所の裁判官4人を刑事告訴しました。理由は「第9条などに違反した」。その11日後には、一人の弁護士が政府を訴えます。理由はやはり「第9条などに違反した」。同じ条文を、政府と市民が、たがいを告発する根拠として引いている。これがいまの状況です。
ただし、私がこの問題を考えはじめた発端は、裁判ではありませんでした。
同じ週、街頭で奇妙なことが起きていました。8月3日(月)、政府が告訴に向かった最高裁の前で、政権支持者の集会が開かれたのです。SNSで呼びかけ、動員のやり方も、3日後に反対派が開いた大集会(プラントン)とほとんど同じでした。私は、この二つの集会を両方とも現場で見ています。それなのに、月曜に集まった人数は、多く見積もってもプラントン参加者の10分の1に届きませんでした。同じ週に同じ街で両方の現場に立ったからこそ、その差に驚いたのです。
ところが、支持率でも選挙結果でも、圧勝しているのは政権与党のほうなのです。
チャベス以前のコスタリカであれば、政治的な脈動の大きさは「街頭に出た人数」でおおむね測ることができました。街頭は、この社会が自分の体温を測るために長く使ってきた温度計だったのです。いま、その目盛りはまったく当てになりません。温度計が壊れたのか、それとも測られる対象——政治的支持のありかた——そのものが変わったのか。ここが出発点でした。
壊れつつあるのは「組織」ではなく「関係」です。
コスタリカの内閣は、じつは非常に強い権限を持っています。ただしその権限を使おうとするたびに、会計検査院、憲法裁判所、選挙裁判所、住民擁護官といった独立機関が、これを何重にも縛ってきました。スペイン語では、組織そのものを instituciones、それらが行政権に対して実際に行使できる関係の総体を institucionalidad(制度性)と呼び分けます。コスタリカの民主主義の中身は、後者のほうにあります。
いま起きているのは、組織をつぶすことではありません。組織はすべてそのまま残り、法律も一文字も変わっていない。変わったのは、それが実際に効くかどうかです。
この10日間で確認できた例を6つ挙げます。憲法裁判所の予備裁判官12人分のうち9人分が、半年以上決まらないまま空席になっている。政府が判決に従わないと宣言し、判決を書いた裁判官を刑事告訴した。役所の契約書・取引先・予算までを「国家機密」に指定して見えなくした。国会の委員会で記者の取材を締め出した。すべての公的機関の予算を一律5%削減した(会計検査院と住民擁護官は、これでは業務が立ち行かなくなると反発しています)。健康保険を運営する組織の理事に選ばれた人を、就任させないまま50日間放置した。
手口はばらばらです。しかし共通点があります。どれも合法の形をとり、制度そのものには手を触れていない。
では、なぜ正面から制度を変えないのでしょうか。
2024年、政権は会計検査院の権限を縮小する法案を、国民投票という手段まで使って通そうとしました。これは正面からの制度変更です。しかし憲法裁判所が違憲と判断し、止めました。根拠は1998年の判例——監視機関に憲法が与えた権限は、通常の立法では縮小できない、という法理です。つまり、通常立法でも、憲法改正でも、国民投票でも、正面からは変えられない。だから「骨抜き」という経路しか残っていないのです。言いかえれば、この国の憲法は正面攻撃には極めて強く、骨抜きには極めて弱い、ということでもあります。
ただし、この壁は思われているほど厚くないかもしれません。2024年の判決は全員一致ではなく、7人の裁判官のうち3人が、この法理をもっと狭く読むべきだという反対意見を書いています。壁は4対3で保たれている。そして、その裁判官を選ぶのも国会なのです。
現に、8月13日の官報には、憲法を変えるための法案が二本、並んで載りました。一本は、裁判官の「控え」——本官が忙しいときや利害関係で抜けるときに代わりを務める人たちです——を選ぶ手続から、最高裁を外すというもの。もう一本は、本官である裁判官の「再任」という仕組みそのものをなくすというものです。いまの制度では、裁判官を辞めさせるには国会の38票が要ります。与党は31議席しかないので、辞めさせられない。ところが再任という仕組みをなくしてしまえば、任期が来た人は自動的に辞めることになり、38票は要らなくなります。片方は入口を、もう片方は出口を扱っている。どちらも「透明性を高める」「独立性を強める」という説明がついていて、一本ずつ読むかぎり筋は通ります。並べて読むと、別の絵が見えてきます。
なお、この二本を通すにも38票が要るので、いまのままでは通りません。それでも出す意味はあります。通すためではなく、次の選挙の争点にするためです。
そして重要なのは、裁判所がまだ効いている、という事実です。
この夏も、憲法裁判所は政権に不利な判断を二度下しています。ですから「もう機能していない」というのは誤りです。むしろ、まだ効くからこそ攻撃されている。そう考えると、骨抜きという言葉の意味も定まります。骨抜きとは、止まることではありません。動いてはいるのに、その結果が相手の行動を変えられなくなっていく過程です。もし今後、判決が実行され、予算が戻り、裁判官が決まるのであれば、私のこの見立ては誤りだったということになります。その条件は、あらかじめ書いておきます。
平和学の言葉に置きかえると、こうなります。
「一律5%削減」は、誰も狙い撃ちしていません。形の上では完全に公平です。それでも、同じ5%の意味はまるで違います。巨大な省庁の5%と、国家予算の0.05%にも満たない機関の5%とでは、削られる中身の重さが違うからです。しかも監視機関は、その仕事の性質上、どこも規模が小さい。特定の誰かを狙わずに、監視機関だけを選んで弱らせることが、形式的に中立な措置で可能になってしまう。加害者を名指しできないまま特定の人々の可能性が奪われる——これをガルトゥングは「構造的暴力」と呼びました。
8月13日に出た二つの判決は、たしかに良い知らせでした。しかしそれは、いったん下がった点数がもとに戻っただけです。向き(ベクトル)は変わっていません。平和とは、いまどの位置にいるかではなく、どちらを向いているかである——私が「平和の数直線」と呼んできた見方です。
最後に、いちばん大事なことを。
制度を守ろうとする側の言葉は、いまほとんどが「壊すな」「黙るな」という否定形です。私の定義では、これは消極的平和にとどまります。一方、政権側は「第三共和制」という新しい国のかたちを掲げている。中身は空っぽに見えます。それでも、肯定形です。そして中身の空っぽな肯定形は、中身の詰まった否定形に勝ってしまう。
だとすれば、問うべきはこうなります。守るべき遺産としてではなく、これから創るものとして、コスタリカの民主主義を語り直せるか。
手がかりは、第9条に書き込まれた「人民」という語にあります。これは飾りではありません。この夏、憲法裁判所を動かしたのは、政党でも元大統領でもなく、名前を知られていない市民でした。住民擁護官のもとには、年に約29,000件の訴えが持ち込まれています。市民が制度を起動する回路がなければ、機関どうしの抑制と均衡も、そもそも動きださないのです。
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本論はA4で60ページを超す論文になります。
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完了次第、別途アップします。

